偉大な俳人17人の足跡

[写真提供/松山市立子規記念博物館][写真提供/松山市立子規記念博物館]

花鳥諷詠の世界
"選は創作なり"

高浜虚子

たかはまきょし

虚子と俳句を結びつけたものはベースボール。17歳の清(虚子)は、城北練兵場でベースボールに興じていた。バットとグローブを取り、「おい、ちょっとお貸しの」と声をかけた青年、それが松山に帰省中の正岡子規だった。転がってきたボールを投げ返した時、「失敬」と軽く言った一言はなんとなく心をひき付けるものだった、と後年書いている。虚子は、友人の河東碧梧桐の紹介で子規に手紙を書き、文学の教えを請う。「虚子」の俳号は子規から贈られたもの。また子規は虚子のことを「さつまいも」にたとえ、「甘み十分なり。屁を慎むべし」と記している。

子規は新聞「日本」に「明治29年の俳句界」を連載し、新派の代表俳人として虚子と碧梧桐を積極的に俳壇に押し出した。後に子規門の双璧といわれた二人がここに出現する。虚子は俳誌「ほとゝぎす」を松山から東京に移し、「ホトトギス」と改名し子規の協力を得て編集発行。明治38年、虚子の勧めで漱石が書いた「吾輩は猫である」が「ホトトギス」誌上に発表されると大評判となった。虚子も一時期小説を書いていたが、大正2年には俳壇に復帰。「守旧派」を宣言し、河東碧梧桐の「新傾向」に対抗。のちに、「俳句は花鳥諷詠である」と表明した。「ホトトギス」に「俳句のつくりやう」、「進むべき俳句の道」等を連載し、俳句の可能性の拡大と普及に努めた。また、女性にも俳句を広めた。「選は創作なり」と述べた虚子は多くの俊英の俳人を育てた。虚子門からは、大正、昭和を代表する俳人が数多く輩出されている。

【略歴】

明治7年2月22日、松山市長町新丁(現・松山市湊町)に生まれる。本名清。幼少時、風早郡別府村(現・北条西の下)に住む。後、玉川町(現・一番町)に転居。祖母の高浜家を継ぐ。明治25年、京都第三高等中学校に入学。同27年、学制改革により仙台第二高等中学校へ転学するが、退学し上京。翌年、道灌山にて子規から後継者となることを求められるが断る。明治31年、柳原極堂の「ほとゝぎす」を引き継ぎ発行人となる。明治36年、碧梧桐との「温泉百句論争」始まる。明治39年、俳句鍛錬会「俳諧散心」を始める。明治41年、「ホトトギス」に雑詠を開始。大正13年、「ホトトギス」に同人制を敷く。昭和19年、小諸に疎開。昭和26年、松山で開催された子規五十年祭の式典に列席。昭和34年、85歳で死去。

【ゆかりの地】

高浜虚子の胸像

高浜虚子の胸像

虚子が幼い頃を過ごした松山市北条地区の西ノ下大師堂敷地。県道179号沿いにある。側面に虚子の句が刻まれている。 詳細

高浜虚子住居跡

高浜虚子住居跡

明治14年から京都の第三高等学校入学まで暮らした。明治24年には帰省中の子規が虚子宅を訪ねて句会を開いている。(松山市一番町1丁目6のあたり)

愛媛にある高浜虚子の主な句碑一覧を見る

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