偉大な俳人17人の足跡

[写真提供/松山市立子規記念博物館][写真提供/松山市立子規記念博物館]

病と闘いながら俳句に生きる
「柿食ふや命あまさず生きよの語」

石田波郷

いしだはきょう

「俳句は文学ではないのだ……生きるということと同じなのである」──戦前「馬酔木」に書かれた文章である。のちに肺結核に冒されながらも、この言葉に忠実に従うかのように、波郷は一途に句と向き合った。

波郷の生地は子規門下の村上霽月(むらかみせいげつ)邸に近く、子どもの頃から俳句には親しんだが、本格的に始めたのは松山中学4年の時。級友の勧めで「愛媛新報」「海南新聞」に投句を開始、授業中にも句をひねるほど熱をあげた。この級友こそ、のちに東映時代劇の看板スターとなる大友柳太朗である。波郷の熱中ぶりとは裏腹に、大友の俳句熱はほどなく冷めて、映画館通いの毎日となるのだが。

17歳で五十崎古郷(いかざきこきょう)と出会い、波郷の運命は大きく動く。古郷は脊椎カリエスで松高中退を余儀なくされ、水原秋桜子の指導を受けていた。波郷の才能を認めた古郷は、自らが果たせなかった夢を波郷に託し、東京の秋桜子の元へ送りだした。「波郷」の号も古郷がつけたものだ。

最年少で「馬酔木」同人となった波郷は、人生や生活に根ざした句にのびやかな抒情性を発揮し、草田男、加藤楸邨らとともに人間探求派と目された。一方で芭蕉に傾倒し、古典的格調の高い句も残す。

昭和18年の応召で中国に送られるが、肺結核を発病。その後の度重なる療養生活は句の陰影を濃いものにし、療養俳句の金字塔と称された。波郷にとって俳句こそが生であった。

【略歴】

本名・哲大(てつお)。大正2年(1913)温泉郡垣生村(現・松山市西垣生町)生まれ。県立松山中学校4年生で句作を始め、村上霽月の「今出吟社」句会に参加。のち水原秋桜子門の五十崎古郷に師事し、明治大学文芸科入学を機に「馬酔木(あしび)」編集に関わる。昭和12年「鶴」創刊。19年、応召で胸膜炎を病み、手術は数度に及ぶ。30年、第6回読売文学賞(『定本 石田波郷全句集』)、44年、芸術選奨文部大臣賞(句集『酒中花』)。44年11月、心臓衰弱のため逝去。亨年56。

【ゆかりの地】

松山市立垣生(はぶ)小学校

松山市立垣生(はぶ)小学校

波郷の母校である垣生小学校には彼の句碑がある。波郷らの偉大な俳人を輩出したことから、俳句学習を熱心に行っている。(松山市西垣生730-1)

愛媛にある石田波郷の主な句碑一覧を見る

▲ このページの先頭へ戻る