偉大な俳人17人の足跡

[写真提供/山中湖村教育委員会][写真提供/山中湖村教育委員会]

繊細な情感と縦横の才気
「よろこべばしきりに落つる木の実かな」

富安風生

とみやすふうせい

風生の生まれ育った愛知県金沢村は、三方を低い山に囲まれた村。弟子の清崎敏郎によれば「桃源郷とも思われる長閑なところ」に生家があった。農家の末っ子として生まれた風生は、経済的にも家庭的にも恵まれた環境で育った。地元の中学を主席で卒業。一高、帝大を経て逓信省に採用されるなど順風満帆なエリートコースを歩んでいたが、喀血。郷里での療養を余儀なくされた。療養時代の約4年間、風生は読書に励み、雑誌に短歌や俳句を投稿した。病気回復後は逓信省に復職。後に、俳誌「若葉」を主宰する。この先、風生は仕事の面でも俳句の面でも、充実した道を歩んでいくことになる。

母・なかより受け継いだ感受性豊かな性質に加え、幼少時に体と心にしみ込んだ故郷の自然環境は、風生の俳句観に大きな影響を与えた。草木愛を源流とした風生俳句の出発点はここあると言えよう。草木を愛する風生に弟子たちは「植富」というあだ名をつけた。また母を詠んだ句も多く、「風生選に入るには母ものを詠うのが泣きどころ」という弟子たちの笑い話も生まれたという。

愛媛との関わりは、昭和7年、森薫花壇(もりくんかだん、明治24年〜昭和51年)らによって創刊された俳誌「糸瓜(へちま)」の雑詠選を担当したことから始まる。「糸瓜」は、やがて県下最大の俳句結社となり愛媛の俳壇に大きな影響を与えた。風生はたびたび愛媛を訪れており、句碑も多くある。晩年の風生俳句は、艶と香気の句境が深まり、独特の軽さが加わったといわれている。

【略歴】

明治18年4月16日、愛知県八名郡金沢村(現・愛知県豊川市)に生まれる。本名謙次。東京帝国大学卒業。逓信省書記となるが、翌年喀血。療養の後、大正7年、福岡為替貯金支局長として赴任。福岡にいた俳句好きの学友、高崎烏城らの誘いで俳句の道に入る。在地の青木月斗、清原枴童、杉田久女を識った。その年、吉岡禅寺洞の「天の川」同人に推される。大正8年、「ホトトギス」への投句開始。本省に転勤。大正12年〜13年、ドイツ、イタリアへ出張。渡欧日記を記す。昭和3年、貯金局有志の手になる「若葉」雑詠選を担当。昭和4年、「ホトトギス」同人、翌年「ホトトギス」課題句選者に推される。昭和8年、第1句集『草の花』刊。昭和11年、逓信次官となる。昭和12年、官界を退き、以後俳句に専念する。昭和22年、小諸に虚子を訪う。句集、随筆集などを次々に出版、旺盛な俳句活動を展開する。昭和54年、94歳にて死去。

【ゆかりの地】

観月庵(かんげつあん)

観月庵(かんげつあん)

地元の風流人 中西月龍氏が設けた観月庵は、広い敷地を拓いていくつもの茶室や庵を配置している。風生は来庵の折に「石鎚の嶮を廂に月の庵」を残しており、その句碑が建っている。(松山市港山町3丁目)

愛媛にある富安風生の主な句碑一覧を見る

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