【愛媛県伊予市】大洲街道沿いの郡中・灘町~江戸・明治・大正・昭和のまち歩き~


2025.02.07

はじめに

伊予市の中心街、郡中・灘町。江戸時代より、官ではなく民間主導(自普請)で拓かれたこの街には、俳諧、教育、陶磁器、醸造、油、金融、、海産物、和紙、製材業などで形成された、一種独特の町人文化があります。今もなお、ノスタルジックな町並みが残るこのエリアを散策してみました。

栄養学の創始者・佐伯矩博士と栄養寺

栄養寺は、伊予市灘町を拓いた宮内家の菩提寺(先祖代々のお墓があり、葬儀や法要をお願いするお寺)です。伊予市中村の明音寺から本堂と本尊を移転し、高僧・苦厭上人が開基しました。浄土宗京都知恩院の末寺で、本尊は阿弥陀如来です。総欅造りの山門は、弘化2年(1845)に建立されていて、龍や亀の彫刻が見られますよ。

当時の郷土を育てた学者たちの墓

本堂の左手には、六角柱笠つきの宮内清兵衛夫妻の墓、その左に兄・九右衛門の墓、宮内兄弟の父・庄左衛門の墓など、伊予市灘町の開拓者の墓碑がずらりと立ち並んでいます。本堂裏門の近くには、正岡子規の書道の師、漢学者・武知五友の墓をはじめ、宮内柳庵、陶惟貞、俳人・仲田蓼屯ら、当時の郷土を育てた学者たちの墓が数多く残されています。

珍しい寺名

幼少時代から北山崎村で育った栄養学の創始者・佐伯矩(ただす)博士は、この寺名から「栄養」と命名したと推測されています。寺には佐伯矩博士顕彰碑、自筆の扁額もありました。松山中学(現在の松山東高校)に通うために、毎日毎日栄養寺の前を通っていた佐伯少年の脳裏には、栄養寺の「栄養」の文字がごく自然に刻まれていたのかもしれませんね。

また佐伯矩博士は、大根の消化酵素ジアスターゼを発見し「栄養学の父」とも称されています。かの有名な夏目漱石の「吾輩は猫である」でも紹介され、食卓に広く普及したんだそうですよ。佐伯博士の学歴を調べてみると、京都大学医学部、北里研究所の後、エール大学へと留学したという郷土きっての秀才!大正9年に、それまでの「営養」を「栄養」と改定するように文部省に進言したんだそうです。

火防地蔵尊(ひぶせじぞう)

参道入り口にある火防地蔵尊(ひぶせじぞう)は、享保6年(1721)、灘町5丁目の地に建立され、明治42年に現在の場所に迎えられたんだそうです。灘町は町家や長屋がひしめきあって密集していたので「せっかく自分たちの手で開拓した町を、火事で失ってはならない!」という切なる願いがこの火防地蔵尊に込められているんでしょうね。

灘町は独特なスタイルの町家

さて、JR伊予市駅から西へ延びる”国鉄通り”とそこから北へ延びる”灘町商店街通り”を歩いてみると、江戸時代から明治・大正・昭和の町並みが楽しめます。

灘町に並ぶ家々は通りに面した間口が狭く、奥行きがかなりある細長い造りをしています。これは、短冊型に切られた宅地に町人が住む町家造りと同じです。ただ、灘町の町家は奥行きが最大のところでなんと60間(約17m)もあり、京都の町家でも最大30間といわれているので、一般の約2倍の奥行きがあるのだそうです。

これは町割りを行ったのが、代官などの権力者ではなく地元豪商だったため。あくまでも”町民主体”のまちづくりだったことがうかがえますね。当時の人々は街道沿いに家や店を建て、奥で畑などを作っていたんだそうな。この独特なスタイルは、つたや旅館の奥行きの長さでも十分に見ることができます

手づくり交流市場「町家」

数奇屋風の佇まいを持つ”町家”がモデル。販売コーナーには地元の農産物や季節の果物、鮮魚、加工品など、伊予市の特産品が多数揃っています。中庭を囲むように飲食店や小売店などもあり、交流、休憩の場としてとても便利です。観光案内インフォメーションもあり「町家に来れば伊予市が見える」と言われているほどです。

岡部仁左衛門・銅像

黒住教郡中教会所の境内に立つ、削り節の創始者・岡部仁左衛門の銅像です(昭和38(1963)年に建立)。大正の初めに削り節機を発明し、「花かつお」の商品名も発案。時を経て現在もなお、伊予市の花かつおは全国一の生産量を誇るなど、伊予市・郡中の発展に大きく貢献しました。また大正7(1918)年から27年間、郡中村・郡中町(現、伊予市)の議員として、昭和21(1946)年からは郡中町長として町政を担うなど、伊予市の産業振興に尽力した偉大な人物です。

山惣商店

文久元年(1861)に建てられた旧旅籠で、現在は醤油と肥料のお店です。お店の内部は当初のまま残されているんだそうです。灘町開拓時から四つ辻の角にあった山惣商店の外観は、辻に向かう角が切れている珍しいもので、市の景観重要建造物として指定されています。現在も絶賛営業されていますので、観光の場合は外観の鑑賞のみとなります。

つたや旅館

灘町商店街の中央にたたずむ旅館。昔ながらの純和風旅館と現代のニーズに合わせたドミトリーを融合させた旅館です。もともとは昭和初期に造船・海運業で財を成した豪商・森寅蔵が、贅を尽くして建てた和洋折衷の町家邸宅で、住居として使われていました。7mほどの間口に対して奥に50mほど長い形は郡中の町家ならではの特徴で、奥に行くほど新しい部屋が出てきます。大正浪漫・昭和モダンの残る贅沢な空間です。

平久

創業は江戸時代末期といいますから、150年以上も前から灘町の移り変わりを見守ってきた老舗料亭です。建物としてもレトロシックで趣がありますね。典型的な妻入りの町家造りで、通り側の2階にある一番古いお座敷は明治期のもの現在は、完全予約制で会席料理を提供されています。

郡中まち元気サロン 来良夢

1911(明治44)年に伊予農業銀行郡中支店として建てられた擬洋風木造建築で、伊予農業銀行→愛媛銀行→芸備銀行→広島銀行と変遷し、昭和38年に伊予ショップガイド事務所になりました。現在は「郡中まち元気サロン 来良夢」として、短期間のチャレンジショップやギャラリー、各種勉強会など多目的に利用できる施設です。和洋折衷のレトロかわいい佇まいではありますが、近代化を進めていた明治期の世相を色濃く残していますね。木造サッシの扁平アーチ窓にも明治っぽさが感じられます。

常世橋(とこよばし)

灘町の入口にある明治時代の橋柱跡です。昔、このあたりに梢川という川があり、灘町と湊町の境だったそうです。調べてみると、「常世」とは「永久に変わらないこと(老いることも、死ぬこともない)」という意味のようですので、ここ灘町こそが理想郷とされていたのでしょうか。ちなみに明治14年と彫られています。

郷土銘菓こんだ

こちらも老舗の和菓子屋さん。創業は約70年前なんだそうです。こちらのお店では、看板商品の「郡中ぽてと」と、五色姫伝説にちなんだ「五色の願い石」という、伊予市の優れた産品に与えられる「ますます、いよし。ブランド」に認定された商品が2つもあるんです。ほかにも、どら焼き、みたらし団子、ようかんと定番の和菓子もずらり。”ちょっとした手土産にちょうどいい”市民に愛されている名店です。

篠崎ベーカリー

創業は明治25年と言いますから、今から130年以上も昔からある老舗のパン屋さんです。愛媛県の特産品である「はだか麦」を使った、「はだか麦パン」や「ひめのはだか麦ラスク」などアイデア商品がたくさん。ちなみにこの「はだか麦パン」は愛媛県パン協同組合が、愛媛県や専門家に依頼され開発をしたパンだそうで、「ますます、いよし。ブランド」に認定されています。それにしてもお店の外観がレトロなこと。130年の歴史と伝統はダテじゃありませんね。

からき天ぷら

こちらも老舗、創業60年の人気天ぷら屋さんです。人気メニュー「ガンス」は「ますます、いよし。ブランド」に認定の逸品で、プリプリサクサク!玉ねぎの甘さと唐辛子の辛さが交じりあっていてなんとも絶妙な味わいです。ほかにも、コロッケ、たこ天、えび天、からあげなども販売されていて、遠方から足を延ばして買いにくるファンも多いんだとか。2024年6月には、松山市祇園町に「からき天ぷら立花店」もオープンしました。

おわりに

2024年11月に行われた、愛媛県主催の”えひめ景観シンポジウム2024”では、ここ郡中エリアにスポットを当てて基調講演も行われました。

愛媛県の中央に位置し、東予からでも南予からでも、高速道路インターチェンジ(伊予市IC)おりてすぐ!松山市からもJRと伊予鉄道の電車2線が乗り入れ、アクセス良好!400年の歴史とロマンのまち、民力で築いた歴史をもつまち、商人自治の風情が残るまち、温かな人情味あふれるまち、伊予市郡中・灘町へぜひ!
記事投稿者:かず

記事投稿者:かず

ひめ旅部のかずです。生まれも育ちも愛媛県は伊予市。「伊予の本気」をお届けできるよう県内各地に出没中です。ひめ旅部の記事をきっかけに、カメラを持ってお出かけしていただけると嬉しいです!きっと、あなたの知らない愛媛が待っている?!